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About Us

A Memorable Place

The Hitoyoshi Ryokan lies along the banks
of the bountiful, gentle Kuma River.

Our authentic Japanese architecture is untouched since our founding,
offering guests a sense of our tradition and history.

Guests enjoy a sense of familiarity and relaxation
thanks to our warm atmosphere and mindful service.

We look forward to greeting you with the best in simple,
honest hospitality.

A message
from our okami

Third-generation okami
at Hitoyoshi Ryokan

Satomi Horio

堀尾里美

My name is Satomi Horio, and I am the third-generation okami, or hostess, of Hitoyoshi Ryokan.

Hitoyoshi Ryokan is an authentic Japanese inn founded in 1934. We have kept the appearance of our ryokan the same as when it was founded, and we were named as a Nationally Registered Tangible Cultural Property in 2012. I hope to keep maintaining and protecting our historical ryokan into the future.

The Kuma River that runs behind our ryokan is famous for sweetfish, rafting, and being one of Japan’s most rapidly flowing rivers in certain areas. Our ryokan offers soothing views over the Kuma River, letting our guests hear the steady babbling of the running water and easing both body and soul. Our famous onsen spas are continuously fed from a natural hot spring with waters rich in minerals that both cleanse and hydrate your skin, leaving it silky smooth. Our dinner and breakfast offerings feature plenty of local ingredients and we aim to emphasize the natural flavors of these high-quality ingredients in every dish. We know you’ll love all the local cuisine we offer.

“Warm hospitality” is our motto, so every day we focus our efforts on offering our guests the best stay they can experience. From all of us here at Hitoyoshi Ryokan, we look forward to seeing you here in Hitoyoshi.

The History of Hitoyoshi Ryokan

  • Snow covers Hitoyoshi, a rare experience (1950s)

The birth of Hitoyoshi Ryokan

Ever since the Warring States period of Japan starting in the 15th century, Hitoyoshi had been a prosperous area built around the industries of wood and charcoal and ruled by the Sagara clan. Merchants from afar would come to Hitoyoshi to discuss business at the many ryotei and restaurants here. The area is flush with quality hot springs, and it is recorded that famed feudal lord Tametsugu Sagara, ruler in Higo, bathed in the springs here in 1492. Later, many public baths opened up here in the late 19th century.

The founder of Hitoyoshi Ryokan, Yoshiki Horio, was originally the owner of a dry goods supplier in Hokkaido. He found a hot spring here in 1933 and built Hitoyoshi Ryokan on the site, a combination of spa and ryokan that was still rare at the time.

  • Article on Hitoyoshi Ryokan during the Leisure Boom

Growth of Hitoyoshi Ryokan

The second-generation owner, Yoshito Horio, took over running Hitoyoshi Ryokan in 1955. Following WWII, Japan found itself in an era of prosperity, leading to booms in travel and leisure. It was during this time that a number of hot spring ryokan opened and Hitoyoshi prospered as a hot spring escape. The area grew famous for boating down the Kuma River leading to further recognition for the region, and Hitoyoshi Ryokan grew to be loved by even more visitors.

This period was followed by a succession of flooding that hit the area, but each time Hitoyoshi has built itself back up better than ever. This strong connection with nature and the Kuma River continues today.

  • Kenjiro Horio, third-generation owner, Misato Horio, okami, and the rest of our staff

The Future of Hitoyoshi Ryokan

Hitoyoshi Ryokan is currently at the hands of Kenjiro Horio, the third-generation president, and Misato Horio, our okami. Our staff works together to follow the times and make our ryokan a place guests want to visit year after year, decade after decade. We still take pride in our history though, and there are two things we are especially careful to protect: the architecture and the hospitality of Hitoyoshi Ryokan. The buildings, both inside and out, are important treasures, and so are our customers.

We have always been and will continue to be a ryokan where our guests can come to relax and feel at ease.

女将ストーリー

皆様にご挨拶申し上げます。
人吉旅館の女将 堀尾里美と申します。本名は、孫鐘熙(ソンジョンヒ)。韓国出身です。私が母国を離れ、人吉旅館の3代目の当主 堀尾謙次朗の嫁として人吉に来たのは27年前(2018年現在)のことです。母国では、日本語の「通訳案内員」として旅行社に勤めておりました。当時「通訳案内員」の資格を取る為には、国の観光公社が実施するかなり難しい国家試験に合格しないといけませんでした。日本語だけでなく、世界史・地理・歴史・航空業務なども含まれており、猛勉強の末やっと得られたライセンスでした。

そもそも私の日本語との縁の始まりは高校時代です。当時 韓国の高校では二つの外国語の授業が義務化されておりました。第一外国語としては英語に決まっておりましたが、第二外国語は選択が可能でした。多くの学校はフランス語やドイツ語を選んでいましたが、私の通ってた高校はそれが日本語でした。当時の国の状況からするとかなり珍しいことです。なぜなら、当時の韓国は今と違ってまだまだ反日感情が根強く残っていたからです。たまたま校長先生が個人的に日本との交流をお持ちの方で、大変日本が好きだったため日本語が選択され、私たちは日本語に触れることができた訳でございます。

社会に出てからは憧れの化粧品会社に入り、女性の外見を磨く仕事をやっておりました。化粧品販売を含め、美容法を研究したりそれを女性たちに広める講座を開く部署にも。しかし、そこは女性社員が上を目指すには限界があり、数年後には殆ど辞めて行くという現状がありました。私は、どうしても自分の知的能力を活かし、一生自分の財産として仕事ができる専門職を目指したいと思っておりました。そして、外国語を身につけ通訳としての仕事をしたいと具体的に思うようになりました。もちろん外国語には色々あります。可能性としては英語か日本語。その中で日本語を選んだわけですが、ここにはやはり色んな縁の重なりがありました。

数年前に他界した実家の父は、昔朝鮮の日本植民地時代に日本に留学していた人物です。父は、中学時代から専門学校(今の短大?)までの間を東京で過ごしました。韓国に戻って母と結婚し、後から私たち兄弟が生まれた後も、昔下宿していた上野公園近くの下宿先のお爺さんやお婆さんの話を時々私たちに聴かせるなど、大変懐かしんでおりました。今思えば、私たち兄弟への父の家庭教育は日本式でした。履物をきちんと玄関に並べさせられたり、家の掃除を各自分担させられたり、食事の時やお勉強の時はよく正座をさせられました。幸い私は正座が好きだったし強かったので、全然苦にはなりませんでした。女将になった今もそれは助かっております。結婚して日本に来ている私に、父は時々俳句を作って聴かせてくれました。今は亡き父との貴重な思い出でございます。

夫との縁は、青年会議所(JC)の交流でございます。人吉JCと韓国の南大丘JCは約40年前から姉妹JCとして交流を重ねており、今も続いております。年に一回以上互いの国を訪問し友情を深めて来ました。出逢った当時、人吉JCのメンバーが南大丘JCを訪問した際その中に夫も含まれており、その通訳を私が担当したことがご縁の始まりです。翌年 南大丘JC側が人吉を訪問した時にも私が通訳として同行しました。この両青年会議所の交流が持たせてくれた私たちのご縁でございます。

結婚とともに来日した私は、日本に慣れる時間と将来の女将業に備えた勉強が必要だと感じました。母国で終わらせなかった大学での勉強への情熱がまだまだありましたし、これからの日本での新しい生活の糧になる知識を得たいと入学を決心しました。熊本大学に留学生として正式に志願、合格し、文学部の民俗学コースを選びました。民俗学は、柳田國男先生の民俗学(年中行事など)から現代に至るまでの生活全般、かなり広い分野の学問です。外国人としては日本を知るためのとても大事な学問だと思います。途中、学芸員になるために必要な単位も履修し資格を取りました。

  • 2列目左から1番目が女将
  • 左から5番目が女将

3年生の時、お医者様のお勧めで長男を出産しました。大学の近くの幼愛園(保育園)に子供を預け、授業が終わったら迎えに行き、布オムツ(保育園の方針)を洗いながら試験勉強に備え、育児と勉強の大変な毎日がしばらく続きました。必ず取らないといけない一週間の調査実習のため、赤ん坊を置いて遠方にも出かけました(滋賀県犬上郡甲良町)。母の助けとみんなの理解があって可能でしたが、夜は一人で搾乳しながら痛みを堪えました。

3年生の内に単位は全部取り、4年生の時は卒業論文のみ残っておりました。卒論のテーマは、神社のお祭り。「現代の日本における神社信仰の意味合いとお祭りの変遷」~青井阿蘇神社の事例~のような内容です。日本人の団体行動や秩序の良さは世界的にも有名ですが、日本に来て私が分かったその理由の一つが、「お祭り」ということです。人吉の「青井阿蘇神社」(国宝)の秋の例大祭は、10月9日の神幸行列でピークを迎えます。そのため「おくんち祭」とも言われる。日にちが決まっているため、もちろん毎年曜日が変わります。たまには週末にかかりますが、その多くは平日に当たります。市内の小・中学校では子供たちが祭りに参加できるよう一時間授業のみで帰らせたりしていましたが、ここ数年前からは「家族の時間づくりプロジェクト」により9日を休業日とし、体育の日などとの連休で家族全体で祭りに参加できるよう市全体で取り組んでいます。町内ごとの子供神輿や多くの社会人のお神輿が出されます。2000人以上参加する人吉・球磨地域の最大の行事、それこそ人々の心の寄り所であり、結束の源でもあります。

卒業後、二人になった子供たちが幼稚園に入り少し落ち着いたところで、女将業を始めました。日本旅館の女将業は、やはり特殊です。結婚前は単なる宿泊業と思いそんなに難しく思いませんでした。韓国にも勿論旅館やホテルはありますので、中身は同じだろうと思ったわけです。しかし、日本旅館は違います。宿泊以外にも新年会・忘年会などの各種宴会や法事、食い初めから長寿のお祝い、今は稀ですが結婚披露宴までもがあります。昔は卓球台や麻雀室も備えており、多くの宿泊客が温泉の後にこれらを楽しむ娯楽施設のような役割も担っていたようです。もちろん母国にも大きいホテルには様々な付属施設を持っており決して珍しいことではありませんが、うち(当館)位の規模のところでは見たことがなかったわけです。しかし、何より大きい違いは女将の存在です。母国には女将という存在は先ずありません。もちろん経営者としての女主人はありえますが、日本の女将とは仕事内容が全然違います。

2000年から女将としての仕事を始めましたが、当時義母は既に他界しておりいわゆる女将修行はできませんでした。義父や夫から人吉旅館の歴史や基本的なことを聴くことは出来、後は自分で考えて自然に分かる範囲での仕事から始めました。先ずはうちに来て下さったお客様に感謝の気持ちを込めて、夕食の時に合わせてご挨拶をしようと思いました。やはり純和風旅館の女将としては和服だと思い、市内の着付けの先生を見つけ習いに参りました。その先生に、着物の着付けだけでなくお辞儀の仕方も教わりました。その後、殆ど毎日夕方からは和服で仕事をこなしております。今は10分くらいで着ることができますし、大好きなきものを楽しみながら尚且つ外国のお客様に対しては日本を代表する気持ちで着用しております。生け花は、池坊の先生とご縁があり週一度のお稽古と展示会への参加などしており、今も籍は置いてあります。茶道のお勉強も少ししましたが、これからも続けてして行きたいと思います。

それと同時に、人吉の歴史や文化財・観光名所についての勉強も励み、どんな会話にも対応できるように知識を備える努力もしております。夕食時のご挨拶を通して、お客様がご満足していらっしゃるかそれとも何か問題があるのかを見つけることができます。もしも何か問題があるならいち早く解決することができるわけです。それからお客様との会話も弾み次にも繋がります。女将としても本当に楽しい時でございます。翌朝のお見送りも最大限欠かさずやっておりまして、それに因って次に来られた時の再会の嬉しさは倍になります。

他にも従業員の採用や教育・管理、広告関係、宿泊プランづくり、インバウンド対応、人吉温泉女将会(さくら会)の活動など、仕事の範囲は広がりました。特に、インバウンド事業においては母国のゴルフ客の誘致に取り組み、2000年当初300人位だったお客様が翌年には3倍に増え、最盛期には年間延2500~2700人になりました。旅館の仕事は、勿論女将一人の力では到底無理でして、表向きは女将ですが裏での見えないところでは社長(夫)がしっかりとと支えてくれているからこそ回るわけでございます。私の手には負えない機械やボイラなど、銀行関係は社長の担当です。対外的なことも含め、すべての最終責任は社長の担当。それと、社員たちもそれぞれのポジションで頑張ってくれて成り立つわけでございます。

主人は、東京で大学(慶応)を出てしばらくは証券会社に勤めておりましたが、次男にも関わらず旅館の後を継ぐため会社を辞め、帝国ホテルのベルボーイから入りホテルの仕事を学び、また別の旅館で修業を積んだ後、義母が病気になったことを切っ掛けに帰郷しました。以来、3代目の当主として様々な改革と取り組みに挑んで来ました。

私たちが取り組んだ経営改革の代表的なことには、先ず<料理>のことがあります。日本旅館の会席料理には大体決まったパターンがあります。当時人吉旅館でも同じような状況でして、焼き物に関しては地元の食材の鮎の塩焼きでしたが、刺身に関しては鯛やマグロなどの海のものを使っておりました。ちょうどその頃、行政からは「地産地消」推進計画が策定され、地元で生産された農水産物を地元で消費する動きが始まっていました。地域生産品のブランド化や、地域の活性化、その地域の食材・食文化への理解促進にも役立つという考えであります。私たちの旅館も地元の食材を使った料理で生産者との連携を図ることができ、また、他地域の旅館との差別化にも繋げると、その動きに賛同し、その実践を真剣に考えておりました。そんなある日、天草から来られたお客様からお刺身に関する指摘がございました。”いつでも新鮮な海の刺身を食べられる我らが、こんな山に来てまでマグロや鯛を食べたいとは思わない”という内容でした。本当にその通りだと思いました。すぐ料理の内容を見直しました。刺身は、夏場は鮎(あゆ)・冬場は山女(やまめ)に。焼き物も同じく。鍋料理はしし鍋を、現在は地元産の黒豚とたもぎ茸の鍋料理です。汁物も野菜たっぷりの郷土料理のつぼん汁です。お客様から鮎や山女の刺身は初めてだと、大変喜ばれております。また、私の色を出して、韓国料理や和漢折衷料理もプランに加えております。私の手作りのキムチは、いつも朝食のミニバイキングに出して自由に召しあって頂いております。他にも、ベジタリアン(菜食主義者)やビーガンのお客様への料理対応も頑張っております。

次に、従業員への<チップ>の件があります。お客様からのチップは日本旅館の長年の習慣でありましたが、泊まりやすい宿づくり・ビジネスホテルとの競争の面からも無くすべきと思い、みんなに説明して全面廃止しました。<宿泊プランの多様化>を図り、1泊2食以外に1泊朝食や素泊まりプラン、そして一人旅応援プラン、ビジネスプランなども設定し、泊食分離の時代流れに沿ったプランづくりを手掛けました。

ここで、前述しました人吉の女将たちのグループ「さくら会」についてもう少し申し上げます。ピンクの法被で有名な私たち女将の会「さくら会」は、「人吉温泉をメジャーに」を最大の目標とし平成6年に結成されました。新聞・雑誌・メディアなどを活用したPR活動やオリジナルグッズの企画・販売、各種イベントの主催・協力など、情報発信・宣伝活動を通じて人吉・球磨の魅力を少しでも県内外の方にお届けできるよう、日々努めています。必要であればいつでも集まって議論し即行動に移す行動力で、「おひな祭り」や「ノスタルジック人吉」を企画・実施し人吉観光発展に寄与しているとのことで、熊本県からも観光功労賞を頂きました。

「ノスタルジック人吉」とは、平成21年の肥薩線100周年記念事業として誕生しました。昔の衣装(着物・袴・洋服)や髪型で明治・大正時代の雰囲気を再現し、100年前にタイムスリップしようという楽しい事業です。今年で10回目になりますが、実はこのイベント私の提案によるものでした。

2008年の6月、私はグリーンツーリズムの勉強のため仲間たちと一緒にイギリスに出かけました。イギリスやドイツは農家民泊(B&B)の先進地と言われています。そこで、SL<SEVERN VALLEY RAIL WAY(SVR)>に乗る機会がありました。ちょうどそのときは、彼らもイベントをしており、人々は第2次大戦時代の軍服姿や看護婦姿、本物のジープやオートバイなどの車両、当時の音楽や旅行用のスーツケースなども揃い、まるで1940年代にタイムスリップしたような光景でした。血の付いた包帯を巻いた軍人姿など、参加者たちは本当にその役になりきっていました。聞くと、年に2回そのイベントをするとのことでした。大変強い印象を受けた私は、帰って来てから早速私たちの「さくら会」に報告しました。肥薩線百周年記念イベントを探していた時なので、すぐ取り入れられ、翌年から現在まで続ける大事な事業になっております。毎年、「SL人吉」運行最終日の一週間前の日に開催しておりますので、皆様ぜひ見に来て下さいませ。お待ちしております。

さて、最後になりますが、これからの目標としては申し上げるまでもなく、「おもてなし」をモットーに国内外に日本を代表する良い宿を目指し、みんなで頑張ってまいりたいと存じます。皆様、ぜひ暖かく見守って下さいますよう心からお願い申し上げます。長い文章をお読み頂き、誠にありがとうございました。

平成30年 9月 吉日
人吉旅館 3代目女将 堀尾 里美
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